つづき。。。
現に、ピクサーのストーリーは試行錯誤され、練りに練られたものに完成しています。ストーリーを作る段階では、脚本家たちが、ストーリーボートというスケッチをシーンごとに書いて、そのすべて何十枚もをボードに張り付け、自身が全てのキャラクターを演じながら、監督、製作陣にプレゼンして行きます。プレゼンが終わったときには、まるで演説でもしたかのように製作陣から拍手と歓声が上がります。この過程を何度も行いながら、ピクサーのストーリーは練られて行くのです。
自分にとって小さい頃から、大事にしていた作品の制作者が日本に影響を受けていたということを知って、わたしはなんだか少しうれしかったです。自分にとっての夢のような世界を作った人が、自分の国の感性を認めてくれているということは、うれしいものです。
今や、日本のアニメーションには海外のファンがたくさんいます。その人気の理由は大抵ストーリーだと思います。
元々、アニメーションというとどうしても子供騙しだったり、子供向けだったりするイメージがあると思いますが、現代の日本のアニメーションはそもそものターゲットを子供にしていないものが多いです。
また、ピクサー映画に共通していえるテーマとは。
それは、「一番大切なのは日常」ということです。人は、いくら今がたのしくても成長していかなければならないのです。おもちゃとしてずっとアンディと一緒にいたくても、アンディの成長を妨害することは出来ません。どれだけ夢のようなファンタジーなことが起こっても、明日になれば日常が待っていて学校が待っています。仕事が待っています。その日常があるからこそ、一時の非日常が輝いてみえるのです。
(ラセター氏は、日本を代表するアニメーションスタジオ、ジブリと30年来の付き合いがあるのですが、ジブリ映画『千と千尋の神隠し』のアメリカ版制作に携わったラセター氏は、原作にはない台詞をひとつだけ追加しました。千尋の冒険が終わり、現実の世界に戻って両親と再開したシーンでの、千尋の母親の「千尋、明日からまた学校だからね」という台詞です。SF作品の最後に日常をちらつかせることによって千尋の大冒険の余韻が浮き彫りになるのです。)
人間は、映画やアニメーションを見るとき、ファンタジーなどの「非日常」を期待します。しかし、どんなにエンターテイメントに「非日常」を求めても、自分の現実に突然ファンタジー的な出来事が起こらないことはわかっているはずです。そこで、映画を見終わって映画館の明かりがついたとき、現実世界に突然引き戻されます。あの瞬間ほど、さみしい気持ちになることはありません。
ピクサー映画は、ファンタジーの中に日常をちらつかせることによって、現実との既視感を生ませると同時に、わたしたちがよりファンタジー世界の余韻に浸りやすくしてくれているのではないでしょうか。
The art challenges technology and technology inspires the art.
—John Lasseter