つづき。。。
物語の前半では、「国の名誉」「女としての名誉」「男としての名誉」という言葉がたくさん登場し、重視されています。しかし、最終的には、女性であるムーランが、扇子やスカーフを武器に、女性にしかできない戦い方で、男性たちの筆頭となって悪役を倒し、また、皇帝という当時国で一番力を持っている人物が彼女の活躍を賞賛します。
このことで、何が起こるのかというと、
「二項対立の逆転」
というものが起こります。
悪とされていたものが、民衆の善となり、善と悪が逆転したのがわかりますか?
また、ムーランが帰郷し、父親に名誉の印である紋章の首飾りを渡しますが、父親はそれには見向きもせず、ただムーランが無事に帰郷したことを喜び、ムーランを抱きしめます。
これは、前半で強調されてきた「名誉」というものが「愛情」に負ける瞬間で、ここでも善悪の逆転が起こっているといえないでしょうか?
もっというと、図式には入れませんでしたが、この作品にはもうひとつの二項対立があると考えています。
それは「ありのままの自分と着飾った偽物の自分」です。
仲人さんに会いに行くために着飾った自分を見て、ムーランは「知らない人に見える」「いつの日か本当の自分が認められる日が来るのか」と呟きます。軍に忍び込み、女だとばれてしまったときにも「自分にもやれることがあるって証明したかっただけ」と言うムーラン。彼女はありのままの自分が認められることを夢見ていたのでしょう。
また、ファ家には先祖の守り神がいて、ムーランのお供、龍のムーシューは、かつて守り神でしたが、ある失敗により守り神から追放されていました。ムーシューも、守り神だと嘘をついてムーランに付き添っていましたが、ムーランが女性だとばれてしまったときに、自分が本当は守り神でなかったことを暴露します。
物語の最後では、ムーランが女性として、ありのままの姿で国中から、友人から、そして父親から認められます。また、ムーシューも、一家を名誉に導いたとして再び、守り神に座に戻ることが許されます。
そして、軍や規律のことばかり重視していたシャー隊長も、ムーランに恋愛感情を抱き、家に訪ねてくることになります。
ありのままの自分を、たとえそれが悪だとされても立ち向かったムーランをみて、影響された人々までもが、「ありのままの自分と偽物の自分」の垣根を飛び越えたといえないでしょうか?
そこで、逆転した二項対立を図式化してみるとこんな様子になるではないでしょうか。
『ムーラン』では、二項対立が混じり合い、さらにそれが物語の最初と最後で逆転しているということを証明出来ました。
なにげなく見ているディズニー映画ですが、こうして分析してみると、物語の構造としてかなり面白い展開が繰り広げられているんです。
物語のスジをただたどるだけでも面白いディズニー映画、こうして舞台の時代背景や思想に注目して行くとまた新たな見方が出来るのでは?
ディズニー映画に限らず、本や映画、例えばニュースの内容なんかも、ただ表面の「ストーリー」を読み解くだけではなく、視点を変えて見てみると、理解の形が変わるかもしれません。
“When will my reflection show, who I am, inside?
How I pray, that a time will come.”
(『ムーラン』“Reflection”より)