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Dマニアブログ〜翻訳から見るディズニーの世界〜

英語と日本語の翻訳的観点から、ディズニー映画の分析、ディズニーランドなどアトラクションの分析、海外ディズニーパークのレポートなどをしております。

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【アニメ】「必殺技」は日本のアニメにしかない?⑵/「アバダケタブラ」「エクスペリアームス」は?【映画】

mandy227.hatenablog.com

つづき。。

 

そこで、わたしは海外の作品にも「必殺技」を叫んでいるような作品があった気がする。。とふと思いました。

その作品とは何か。ハリー・ポッターです。

魔法使いの世界を描いた『ハリー・ポッター』に登場する「必殺技」は、魔法の「呪文」という形に姿をかえています。「呪文」は「必殺技」と言っていいのでしょうか?

 

ハリー・ポッター』にはたくさんの呪文が存在します。主人公のハリーが得意とする呪文は、「エクスペリアームス」(武器よ去れ)です。

また、魔法界で禁じられている三大魔法呪文「アバダケタブラ」(息絶えよ)、「インペーリオ」(服従せよ)、「クルーシオ」(苦しめ)も代表的な呪文のひとつです。戦闘シーンでは、「エクスペリアームス」、「アバダケタブラ」、「レダクト」(砕けよ)、「ステューピファイ」(麻痺せよ)などがよく登場します。

相手を殺すことの出来る呪文「アバダケタブラ」なんかはいかにも、必殺技という感じがします。

 

また、3作目に登場する「エクスペクト・パトローナム」(守護霊よ来たれ)という、守護霊を呼んでディメンター(人の魂を吸う怪物)を追い払うことの出来る呪文。3作目のクライマックスで、この呪文をハリーが大声で叫ぶシーンが印象的です。(CMなんかで耳にした人も少なくはないはず。。)

 

戦闘シーンに技の名前を発しながら戦うという点に関しては、「必殺技」と「呪文」は同義と言えるでしょう。

 

しかし、ここで日本の「必殺技」と違う点から目を背けることは出来ません。それは、個性を引き出すために使われているわけではないという点です。それぞれが得意とする呪文はあれど、「この人にしか使うことの出来ない呪文」というのは存在しないのです。

 

戦闘シーンは、一見みんなで力を合わせて戦っているようにも見えますが、あくまで「選ばれし者」ハリー・ポッターを中心に展開されていることが、「必殺技」不要の理由になってしまいます。

 

しかし、この作品では違った形で、「呪文」が「必殺技」のような作用をしています。

例えば、ハリーの友人のハーマイオニーは勤勉なので、難しくて繊細な呪文が得意です。戦闘シーンで活躍することはほとんどありませんが、ハーマイオニーが習得出来ない呪文はないと言われているほど優秀な魔女です。

また、ハリーの友人ネビルは、「魔法植物」に関する「呪文」が得意です。彼も戦闘シーンでの活躍はほとんどありませんが、ハリーが困っているとき、ハリーには思いつくことの出来ないような、魔法植物学の視点からハリーを助けるシーンなんかが登場します。

このように、戦闘シーンでは仲間と共に戦ったり、主人公以外の登場人物が戦闘シーンの中心になったりすることはほとんどありませんが、それぞれが得意とする「呪文」(個性)で主人公の戦闘を支えています。

 

得意呪文を作ることで、そのキャラクターの個性を生み出しているという点において、「呪文」が「必殺技」のように作用していると言えるのではないでしょうか?

(映画の『ハリー・ポッター』では、演出の都合上、後半になるにつれて戦闘シーンではほとんど呪文を唱えなくとも、魔法が使えるようになってしまっていますが)

つまり、ハリー・ポッターでは、あくまで主人公のハリーに主にスポットが当たってはいるのですが、それぞれの得意呪文を際立たせることで「仲間と戦っている」ということを主張している節があるように感じます。

 

(『アベンジャーズ』などは、作品の中にたくさんのヒーローが登場しますが、あれは元々別の作品のキャラクターの集合なので、論点とはずれてしまうと思って例からはぶいています。。 日本版に置き換えると、『ワンピース』のルフィと『NARUTO』のナルトと『名探偵コナン』のコナンが共演しているようなものなので。)

 

 

「必殺技」の存在意義を考えていたら、海外と日本の物語における主人公の立ち位置のちがいが見えてきました。もちろんどのヒーローも誰かに支えられながらがんばっているのですが、海外のヒーローは孤独がステータスになっているような気がします。日本の「ヒーロー」(主人公)の意義が、「仲間たち(と視聴者)がついて行きたい存在」である反面、海外の「ヒーロー」は、「賞賛されるべき対象」なのではないでしょうか。もっというと崇められる対象という感じです。

例えば、街を救っているヒーローならば、街の人たちから賞賛され、敬われています。日本のヒーローとその他の人物の間には信頼関係がありますが、海外のヒーローとその他の人間に信頼関係はあるのでしょうか?もちろん街の人たちもヒーローを信じていますが、ヒーローは1回でも街を守ることを失敗したら、その瞬間からその街のヒーローではなくなってしまいます。この関係は信頼というよりは依存関係に近いのではないかと思います。宗教的に言えば、ひとつ信仰の対象を作り、信仰対象人々という構図を作ることでその街の秩序を保っています。それが、海外のヒーローが孤独なりえる理由なのではないでしょうか?

 

普段、当たり前のように口に出していた数々の必殺技。

こういう意図があると考えてみると、また違った見方が出来るかもしれません。

 

 

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